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2-6


 砦に入ると外の明るさが一気に絞られ、視界に暗いものが焼き付いた。同時に、砂漠に来てより感じていなかった水の清冽な気配が体を包む。
 簡素な作りの砦だった。絢爛な装飾はひとつもない。しかし、ほの暗い光がそこかしこに浮いていた。
 薄い青を孕んだ、暗がりに浮かび上がる光だった。近づくとゆらゆらと揺れる。満ち引きを繰り返す波のようだった。
「これ……水?」
 レカードが思わず手を伸ばす。光を内包する小さなかたまりは奥の景色を透かし、同時に鏡のように手前の景色を反射してもいた。触れようとした手が映り込む。リタリダが止めた。
「触れない方がいいですよ」
「え、どうして?」
「それはレイデスの魔力」セラヴィスが答えた。「触れるべきではないわ」
 セラヴィスの言葉に従って、レカードは素直に手を引いた。砦の奥に視線をやると、ひときわ大きな水のかたまりが浮いていた。
「奥の……あれは、実験をした時に現れたものに似ていますね」
 ティーフェンの言葉にリタリダが肯首する。
「ええ、あれはきっとこれらと同じだったはずです。……何であんなことが起きたのか」
「あ……!」
 リタリダの言葉にかぶるように、レカードが感嘆する。
 視線の向けられた、ひときわ大きな水鏡の手前には、いつの間にか人がひとり現れていた。
「レイデス」
 セラヴィスが小さく呟き、この場では異邦人である三人は息を呑んだ。

「お帰りセラヴィス、ご苦労だったね」
 その声は、不思議と空気を震わせてグランの耳に届いた。この人物の力だという光が、そこかしこにあるからかもしれない。この存在は特別だと、この水のような明かりが言い聞かせているのかもしれない。
 水に満たされて寒いわけではない。けれど、背筋がなぜか震えた。
「リタリダも……たくさん連れ帰ってきてくれたようだ、疲れたろう」
「わたしはワープを使っただけですから。それより、申し上げないといけないことがたくさん。出来れば、わたしはなにより先に彼女を紹介したいのですけど」
 リタリダは労いの言葉をかけるその人に微笑んでから、ティーフェンに向き直った。
「あ……」
 はっと気づいたように、ティーフェンは膝を折ろうとする。この地の王はそれを制した。
「あなたの国の礼節はここでは必要はない。リタリダ、言わなかったのかい」
 ふっと薄く笑いを浮かべてリタリダに目を向ける。だいたい言いましたよ、とリタリダも同じ笑みで返した。
 何が何だかわからず、グランは緘黙して佇立するだけだった。隣で、緊張をあらわにしながらティーフェンが姿勢を正す。
「私はパニティレイム王レイデス。……きみの名を教えておくれ」
 その言葉に、ティーフェンがまとう空気を変えたのが、グランにも伝わった。ざわりと肌を刺す。ティーフェンは口を開こうとして、一度やめた。そっとグランに向き直る。視線が交わり、柑子色の瞳が和らいだ。でも、笑っていない。グランは名を呼びそうになって、音にならなかった。彼女の緊張が乗り移ったのか、喉が締まっていた。
「……あの時の答えを言うわ。グラン、レカードにも……」
 ティーフェンは一瞬レカードに視線を移し、すぐにレイデスに向き直った。あの時、という言葉をグランが飲み込んで理解するのを待たなかった。
 グランは、正体の知れないなにかに置いて行かれると思った。
 柑子の瞳に迷いは無かった。はっきりと名乗る。
「レイデス様。私は……ロヴェグ皇帝リドーラの姪、ティーフェンと申します」
 すっかり耳になじんだティーフェンの声が、見知らぬ他人のそれとして耳朶を打つ。
「……帝国の姫とは」
 表情も声色も変えずにレイデスは言う。「用件は何かな」
「もう一人の私の叔父から、仰せつかって参りました。叔父の名は、エルシドと言います。あなたにこの杖を渡すようにと」
 ティーフェンが杖を差し出すと、レイデスはそれを受け取る。ティーフェンの伝えた名前を小さく噛みしめるように復唱して呟いた。
「……懐かしい名と、杖だ」
 手にした杖に視線を落とし、僅かに口元を歪ませた。笑みなのかわからない弧を描く。やがてティーフェンに視線を合わせた。
「これが何を意味するものか、きみは知っているかい」
「い、いいえ」
「そうか」
 レイデスはそれを聞いてから、ようやくグランとレカードに目をやった。その視線がやがて宙に浮く。
「……いつの間に、時は経っていたのか。話さねばならぬことがたくさんあるようだね……」
 過ぎた時間を眺めるように視線は焦点を結ばないまま、呟きは誰に宛てるわけでもなく。しかしそれは一瞬で、魔導師の王の金に輝く目は、またすぐに現在を見つめた。ティーフェンではなく、今度はレカードを。
「紅い目の、きみに会いたかった。よく来てくれたね」
 レカードが息を呑んだ。言葉を形にすることを忘れて、レカードはただ金の目を見つめていた。
 金の目は、それ自体が魔法を帯びているかのような力があった。言葉を奪い、ただ惹きこんでしまうそんな力だった。
 レイデスの目がグランに向いた。
「きみもとても奇妙な、空気をまとっている。……面白い客人ばかりだ」
 一瞬覗き込まれただけで、心のすべてを掬われた錯覚が全身を走り、言葉を失うしかなかった。
 ティーフェンがどれほどの決意で言葉を発していたのかが、瞳を見て初めてわかる。彼女の姿を見たかった。だが、レイデスの瞳がそれをさせなかった。
 しかし、ふとした一瞬の時間の経過が、それまでの緊張した空気のすべてを取り払った。
「え?」
 一体何が変わったのか全くわからなかったが、レカードも同じ感覚を抱いたようだった。驚いた声を漏らし、控えめに見回す。何も変わってはいなかった。
 それを見て、レイデスがふっと息の音を漏らして笑った。
「緊張させてすまなかったね。どうか力を抜いてくれ」
「レイデス、力が濃すぎるわ」
「そうだったみたいだ。今気づいたよ」
「異国の客人なんて来ませんから、仕方ないですね」
 目が笑っていた。血の通った人間の微笑みだった。途端に水に濡れていたかのような空気が、暖かい火を宿す。セラヴィスとリタリダとのやり取りも、王と臣下のそれではなかった。グランは全身から力が抜けるのがわかった。同時に、この空間を支配しているのはやはりこの金の目の人物なのだということも。
「すみません、三人とも」リタリダが苦笑した。「いくら水に閉じ込めていても、ここには魔力が充満しているんです。この方の振る舞いに、これでは呑み込んでしまいますね」
「こんなところでも、まともな部屋は用意できるさ。大切な話がいくつもあるから、ゆっくり休んでもらいながらにしよう。さあ二人とも、戻ったところに悪いけれど、手伝ってくれ」
 リタリダの語尾を引き取りながらレイデスは語りかけ、砦の奥へと踵を返す。魔導師ふたりが追従した。セラヴィスは何も語らず、リタリダは部屋の奥へ消える前に「少し待っていてくださいね」と変わらぬ苦笑で言い残す。
 中空に水の球体が浮かぶ空間に、三人が取り残された。
 魔力に囲まれていると言うけれど、その主が遠ざかってしまえば、ただ見た目には奇妙なだけのことだった。あの身を刺すようなざらついた感覚は蘇らなかった。



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