1.握手


 風が吹く。そのたびになだれ込むものは大体は映像で、まれに音声や、心の動きそのものでもあったり。
 ただその色濃さは当然だと、もう思い込んでいた。
 風が吹いている。見たこともない者たちの姿が浮かぶ。踊る少女の姿。勇気を胸に笑う青年の姿。一生交わることもない誰かの影を、何の意味があるのかもわからないまま今日も見る。
 彼にとっては当然のことだった。風から得るものを疑いもしなかったし、それ以外のものから得ることをほとんど考えもしなかった。

「トワ」
 レムシアが呼んだ。空気を震わせた声が、風とはとても呼べない小さな波紋が、しかし耳朶を鮮明に打つ。彼女の声は特別なのだ。
 トワが振り向くと、レムシアはいつも通りの笑みを浮かべていた。
「ねえトワ、今日は風が強いわね」
 その一言で、トワはあらゆる風が凪いで消えたような錯覚をすることなど、レムシアは知らない。
 彼女の長い三つ編みが揺れている。毛先だけが白く色の抜けた赤い髪である。以前会ったときはばっさりと切り、売られかけていたそれ。だというのに記憶の中に、髪が短い彼女はいない。
 そうしてふと、トワは離れていた時間の長さを思い知るのである。彼の傍にはいつも風があって、求めるものを運んできてくれるから。彼にとって距離とはさほど大きな意味を持たない概念だった。傍にいなかった時も、何となく彼女が生きていることを知っていた。
 もっとも、傍にいるようになってからは、そのようなかすかな情報では耐えられなくなってしまったけれど。
「あなたはこういう日って、辛かったりするかしら」
「そんなことはない。こういう風の強さはほとんど関係ないから。せいぜい視えにくくなるくらいだよ」
「そう。……たいへんね」
 トワは否定をしたつもりだったが、レムシアがそのようにとらなかったので怪訝に思う。
「大変? なぜ」
 レムシアはおかしそうに、子どもを慈しむように笑う。
「どんな日であれ、あなたはその風から逃れることが出来ない。永遠にひとりにはなれないわ」
 そうしてトワの手を取る。包むように握る手は、風を遮るには少し足りない。だから、トワは握り返すことにした。手と手を結ぶのは友好の証。かつて別れるときにはこの程度のことさえ出来なかった。
「かつてのあなただったら、この手には毒や針を仕込めるものだと思っていたのかしら」
「そうかも、しれない」
 けれど、今の自分はとても思わないだろう、ということも確かだ。
「互いの手を取ることでしか表せないものがあるのか、今でもよくわからないのも本当だ」
 ――それでもこの手は、握っていたいと思う。
「そんなものはこれからよ。私たちは飽きてしまうほどに、きっと傍に居続けられるでしょう?」
 時々、彼女は風を視ているのではないかと思うことがある。どうやら彼女は聖女だとか呼ばれているらしいが、それは敬虔に祈る姿や、容貌の美しさだけではなく。このような神託じみた物言いも一因なのではないかとトワは思う。柔らかい微笑みに、されど風を操る力を乗せる。絶対の響きを持つ言の葉も。
「……きみが言うならきっと、そうだろう」

 風をその身にまとう姿は、神のよう。
 あなたの手を取ろう。その理由さえ未だわからずとも。全知の存在であるあなたの、その手からくみ取れるまで。

***


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