2.ゆびきり


 今日も小さなこの国は、荒々しい稜線を描く山々や、作物がまともに育たない、水に欠いた大地が支配している。
 重たい羽音は、かつて自国では滅多に見ることのなかった竜のもの。それゆえに脅威の象徴だった。あの国で聞いていた竜の羽音は、この小さな国の唯一の牙である、竜を駆る猛者たちのものだったのだから。もっとも、既に音は日常の要素のひとつとして耳になじんでしまっているけれど。
 フェリアスは羽音のする方向を見上げた。窓の向こうには眩しいほどの光の中、輪郭のみの黒い塊となった複数の竜の姿が見える。
「……ロザインは、今日はよろしいの?」
 視線を翻して尋ねる。貧しい国の希望そのものとして、竜騎士たちを統率し『竜の王子』と呼ばれている彼が、今日は私室でなにやら紙を睨んでいる。
「いい。俺がいなくとも訓練などいくらでも出来る。それに、あれは訓練ではない」
「そうでしたの。私には違いがわかりませんわ」
「当然だろう」はん、と皮肉げな笑みを浮かべて言う。「敵国の姫になどわかるまい」
「まあ、覚えてらしたの。その姫を私室に入れるなどするのですから、てっきり忘れてしまわれたかと」
 そう言ってフェリアスも笑った。ロザインはゆったりと椅子に掛け直し、足を組んだ。
「あれは人ではなく、竜を馴らすためのものだからな、訓練などというぬるいものではない。下手に人数がいる方が危険だ。熟練の騎士のみが行う。俺でもできぬ」
「嘘ですわね」
「まあな。だが俺がするなどと言えば、余計な面倒が増えるだけだ」
 ロザインの竜と槍を扱う才能は人一倍優れていると、フェリアスはよく知っていた。小さなこの国であっても、王族は危険なことから遠ざけられるものだということも、身に沁みるように知っている。
「それに、今は厄介なものがある」
 ロザインは睨みつけていた紙をひらひらと振った。この国ではあまり見ないような、上等の羊皮紙だった。かつて自国で目にしていたもののような。しかし机の上に置かれた封筒は、確かに質は良かったけれど、公文書のような印がどこにもなかった。
 ロザインは投げるようにぞんざいに、フェリアスに渡した。
「帝国より虫の飛ぶ兆し……贄殿の場所は光のもとに晒される、ですか。……彼女の字ですね」
「知らせだけではない。近々こちらへ来るようだ。全くあいつはずいぶんとおまえに尽くすものだよ」
「実際にはあなたを動かすための契約を交わしに来るのですわ。敵国の王子であるあなたを信頼してもいるのです」
「契りか」息を吐くついでのように言う。「全く仰々しい。契りなど、指を切れば十分だった」
「そうですね」
 フェリアスは、かつて自国より逃げ出すために、この王子の手を取った時のことを思い出す。
 あの時、この王子は槍を片手に持ったまま、血まみれの手を自分に向けてきたのだ。手を握るのが怖くて、恐れながら己の指を絡ませると、乾いていない血が指に付き、それが何よりも心強かった。同じ強さを分けてもらった気がした。運命を共有したという思いがした。
 ――そして、それ以来ずっとここにいる。いつかは居場所が祖国に悟られるだろうとわかっていた。長く知られずに済んだ方だとも思う。それは国に残った親友の尽力のおかげであることを、今も自分のために動いてくれていることも、便りを見るまでもなく知っていた。
「ロザイン。また……交わしてくれますか。わたしの指とあなたの指で、契りを」
「どのような?」
 竜の王子は不敵に笑う。あの時と同じ力を与えてくれるような笑みだった。フェリアスは、無理にでも同じ笑みを作ろうと努めた。
「わたしとあなたがともに生き延びること」
「よし」
 そうして差しのべられた手。かつてよりも太くたくましくなった指には、血の色など見当たらない。
 それでも指を絡めれば、竜の心がこの手に宿るような気がした。

 外を飛ぶ竜が一匹、光に目を眩ませて落ちていった。それを二人は知らない。

***


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