Log 3


 静かに凪いだ世界には、音ひとつ、風のひとつも存在しない。
 ただ透明に広がる水が静謐に空間を支配する。
 果ても見えない、ごく薄い青がどこまでも伸びてゆく。
 どこから生まれるのか知れない淡い光を反射して、きらりと一瞬輝く。

 その世界に、小さな波紋が生まれた。
 中心が拡散したところに、もう一度新たな中心が生まれ。
 三度目にはそこから、か細い旋律が共に生まれた。

 少女は波紋の上を跳ねるように軽やかに、水上に浮きながら歌う。ひとりきりの静かな、微かな歌。
 夢の中に揺蕩うように、微睡むように穏やかで美しい旋律は、少女の行き先を導くように波紋を生む。

 そうすると、不意に風が吹いた。
 自分の姿も水の在り様も見えていなかった少女は、ふとそこに世界の広がりを感じて。
 嬉しくなり、続きの旋律を歌いだす。
 そして、足元の波紋と少女の声に重なるように、どこからともなく青年が現れた。
 青年もまた、少女の声に合わせて歌う。

「お嬢さん、素敵な声だ。水に踊るその姿、妖精のよう。私とともに踊りはしないか」

 青年が言う。風がその音を乗せる歓喜に舞いながら運んでくるような、世界そのものに愛された青年の姿。
 少女はそれを認めて微笑んだ。薄い白いスカートをひらひらと舞わせ踊ったまま。

「あなたは不思議な声。透き通る言葉と風、まるで詩人のようね。うん、ともに踊りましょ!」


「わたし、眠くなってしまったわ。それに、どこかへ行かねばならないような、見なければ……思い出さなければならないことがあるような気がする」
「お嬢さん、それは夢のうちにあなたが置いてきたものを取りに行くのだよ。わたしはここで、あなたが戻ることを待とう。あなたの眠る世界が安寧であるように、あなたが眠っている間、わたしは歌おう」

「うん――ゆめが、呼んでいるわ」

***

 薄く世界を動かすのは、青年の小さな歌声。眠り歌の世界をも支配してしまう甘美な歌声は、星空と共鳴するようにそこにあった。青年の声に安堵を覚え、少女は夢の世界を歩くことにした。
 この世界は水もなく、自分の姿も周りも見えているけれど、それ自体ないものであるかのような空間。頭上に瞬く星々が、唯一世界を世界と呼ばせるに役目を果たしているような、そんな場所。
 歩けば、星が落ちては輝き、生まれては音を立てる。

 青年の優しい旋律が一度消えた。ひとつの歌の跡切れ目だ。
 その瞬間少女は悟る。

 ――ああ、ここは怖いところ、いえ、さみしいところなのだわ。
 青年の声を伴わない星々は実に虚しげに、悲しげに響くばかり。寄り集まり幾重の音に光っても、青年のような優しさは伴えない。

「星たち、だめなのよ。あなたたちはあの人ではなくて、あなたの声で輝かなくては。あの優しさがなくとも、美しく輝くことができるはずよ……さあ、歌ってみましょうよ」
 少女が言った。

 すると星は、少しずつ光りだした。
 色とりどりに、明るさもそれぞれに、寄り添ったり離れたりしながら。そのきらめくような音がだんだんと広がって、少女を誘うように揺らめきだす。
 少女は目を輝かせた。
「素敵な星々、わたしもあなたとともに踊るわ!」

 そう言って少女が波紋を広げたとき。

「それでは私も歌わねば。星たちよ、きみの輝きについ聴き入っていたけれどね。お嬢さんが踊るのならば話は別さ」
「まあ、あなた! あなたも来たの」

 青年がどこからともなく現れて歌いだす。夢の世界を守るような優しい旋律がよみがえる。だけど今度は星々もより一層輝いて、その旋律を立てながら、乗りながら、ともに響き、まさに夢見るような音を作る。
 少女は途方もなく心地よかった。しあわせに踊る。
 やがて、星々は淡い空に吹かれて、青年はそれ自身が風になり、するりと世界はかたちをなくした。
 ふわりと少女が一回転するような、とても自然な変化だった。

***

「おかえりお嬢さん、よく眠れたかい」
「――あ。わたし、夢から覚めたのね。あなたの歌が素敵だったから、とてもよく眠れた。良い夢も見たわ……」
 そう報告する少女に微笑みかけて、青年は言う。
「お嬢さん、提案があるのだよ。あなたがはじめに歌っていた旋律、今度は私と共に歌わないかい」
「ええ。そうしましょ!」

 少女が歌えば青年は星のように歌い、青年が歌えば少女が星となり。
 そんな風に、二人は互いに交じり合うように歌い、踊る。

「あなたの声はやっぱり不思議。ねえ、こんな踊りはどうかしら」
 ふいに少女は、それまですることのなかった動きをする。波紋が変化した。
「ああ、それは素敵だ。あの星の輝きを混ぜたような、動きだね」
 すると青年の歌もそれに合わせるように、これまでにない旋律を紡いだ。

 二人はそうして、しばらくしてから、ようやく水のうちに降り立って。

「ねえ……わかったことがあるのよ。ここも、夢も、同じなのだと。私は行き来することが決まっている。踊るというのはそういうことなの。あの星の輝きは、ここの水にはないものであるけれど、同時にこの水を知らなければ、あの輝きはわからない」
「ではお嬢さん。あなたは精霊ではなく、旅人なのだね。生きているというそのものの存在だ」
「そして、あなたは詩人というより世界そのもののようだわ。風となり、光を生むような。夢もここもまるであなたが作り出したような」
「どうだろう? そうだとしてもあなたの踊りは、わたしには考えもつかないものさ」
 青年は嬉しそうに微笑んだ。

「ねえ。今度はともに眠りましょ」

***

以前クラシックの名曲、ドビュッシー「夢」を演奏する機会がありました
その時、曲の解釈を助けにしようと書いたものです 雰囲気だけ


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