Children's corner


 こころの中に語り掛けるような、木のぬくもりを感じさせる音のつぶだ。
 この音のつらなりを知っている。
 おもちゃ箱をひっくり返したかと思えば、雪が降る。「こつこつ」というよりは、「ぺたぺた」とした擬音が似合いそうな、幼い足取り。軽やかな音の飛翔と、あっけない幕引きや、飽くることのない繰り返し。
 そして最後には、すこしおとなになる。

 僕にとってその曲は、懐かしく煩わしいものという他ないものだ。こども自身には楽しくもない曲だった。
 ピアノはなんでも弾ける楽器で、なにひとつ完全には満たされない。楽器の王様、しかしそれは孤独と虚無がつきまとう。いつもどこか足りず、さみしい。
 そう思って声の道を歩むことを決めた。ピアノには手を振って。声は何とでも合わせることが出来るし、己だけでも歌うことが出来る。寂しさも、満たされなさもない。
 僕は、調和と充実の音楽を手に入れた。
 なのに。
 あの曲が頭の中に流れている。いや、頭の中ではない。実際に音の波が鼓膜を揺らし、聞こえているのだ。わかっていた。頭の中の、かつての自分のつたない演奏と共鳴しているだけで。
 かつてのものとはあまりに違う。豊かで甘い香りが漂う。怜悧で温かだ。
 だが、やはりこどものように。
 眼前で、妙齢の女性がピアノを奏でている。
 ――どうせなら。
「もっと難解な曲を弾けばいい?」
 驚いて目を丸めた。
 しまった、口に出していただろうか?
「……そんな表情をしているわ」
 女性は変わらず弾きながら、少し微笑んで。
 その微笑みに、馬鹿にされていると感じた。
「そのようなことは、思っていない」
「そう?」
 女性の指先は、音の雪を降らせている。
 その曲も、もう終わりだ。
 この次は、羊飼いの曲だ。我ながらよく覚えている。滑稽な音の転がり。
 だが、女性は弾かなかった。
「あなた、ピアノはもう弾かないの?」
 変わらず笑みを張り付けたまま、不躾な問いをしてくる。
「これは素晴らしい名器よ。どんなものもこころをかどわかされてしまうような……」少し、声に恍惚の色が見えた。「弾いてみない?」
「必要ない。僕はピアニストじゃなく声楽家だ。どんな名器でも、あなたが弾く方が合理的だ」
「あら、そうなの。ぜひ一曲一緒にやってみたいのだけど……あいにく、わたしは歌曲の伴奏ができないのよね、残念だわ」
 そう言って女性はピアノに向き直る。
 今度こそ、羊飼いが不可思議な旋律を奏でた。

 どことなく、静かな曲だ。
 あの時すでにピアノを見限りたかった僕には、こころに巣くった廃墟を見透かされるような曲でもあった。技巧ではない豊かさはもう尽きていて、ピアノの音に宿せなかった。
 なのに、おとなになって聞くこの曲がこころに染み入るのはなぜだろう。
 光が照らすかのようで、煩わしかった。

 女性は、続く曲を弾かなかった。曲集の最初の曲に戻ってまた弾きはじめる。
「なぜ、その曲集ばかり弾く?」
 女性の魂は指の上。しばらく答えず、フレーズが切れたところで向き直った。
「わたしの子どもを慈しむためよ」
 予想外の答えだった。
「かどわかされてしまったの。こころだけではなく、からだごと」
 ピアノは身体までは奪わない――そう聞こえた気がした。
「この曲たちを弾いていると、あの子の愛らしさ、無邪気さ、不気味ささえも思い起こせる」
 鍵盤を見つめる目元の深い隈に、視線が行く。
 こころの廃墟は、彼女も同じように持っている。
「……思い起こすだけだろう」
 ごまかせない、後ろめたいような気持ちだ。
 己の声が思いのほか鋭かったのか、視線がこちらを向いた。柔和なだけであった目に、痛みが見えた。煩わしさが少し消えた。
「……ええ、そうね」
 音の雨がやんで、部屋は森閑としている。

「あなたはピアノには愛想をつかしても、音楽には愛想をつかさなかったのね」
 二曲目は、いやに不協な低音交じりの子守歌だ。
 子どものころ最もわけのわからなかった曲だ、なのに今は、わかってしまう。
「いえ、それも昔のことで、今はピアノの魅力を知っているという顔をしているわよ」くすりと微笑んだ。「どうして弾かないの? この曲も、覚えているのでしょう」
 三曲目だ。人形と、恋の曲だ。この曲はかつてもそこそこ楽しいほうだった気がする。今聞くと、どことなく狂乱的な音が印象的だ。
 頭が乱される、と思った時にはもう曲は終わっている。
「……あんたこそなぜ、最後の曲を弾かない?」
「え?」
「なぜ、六曲目を弾かない。最も有名な曲だ」
 答えは、わかる気がした。
 ――むちゃくちゃな曲だ。でも、すこし。
「不完全な子どもだな。ずっと子どものままとは」
 女性の表情が凍った。
「あんたはそのピアノにかどわかされている。子どものために弾いているんじゃない、こころの虚無に付け込まれ、弾かされている。弾かずにはいられないし、なのに子どものことを思ったら怖くて最後の曲が弾けないんだろう」
 こころをかどわかされてしまうような名器、それは確かにある。
 苦く実感した。
 まさに、それを感じさせる音なのだ。
 女性は心を射られた顔をしていた。疲れた皺からは、年相応の均衡を感じた。
「なあ、最後の曲を弾くべきだ」
 その均衡がなぜか健康的に見えて、だから言葉が、するりと口をつく。
「あんたが弾かないなら、僕が弾こう」
 ピアノに近づき、指を載せる。こんな緊張は、幼い頃によく感じていた気持ちだ。
 その手を、女性の手が包んだ。
「いえ、いいのよ。あなたの言う通り。……リクエストをお受けしたからには、弾かなくてはね」
 柔和なおとなの目が、最後の音を奏で始めた。

 聴衆の前に立って聴かせる緊張、恐れと、それを上回る充足。
 昔も、今も知っている気持ちだ。
 その充足の後にはいつも、すこしおとなになる、そんな気がしていた。

***

2016/2/20のフリーワンライ参加作品。お題は『失ったはずの光に照らされ』『廃墟とピアノ』『感情的』『耳を擽るテノールボイス』『森閑とした雨の中で』でした。お題というより土台程度、そしてピアノ曲シリーズ。今回もやっぱりドビュッシーで「こどもの領分」です。
六曲目=『ゴリウォーグのケークウォーク』は軽快で楽しいだけでなく、ちょっとジャズのような要素を感じておとなっぽい曲だなあと思ったのでした。


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