黒き海への贖罪


 男の黒い双眸は、すべてを飲み込む海の底を連想させた。海の祝福か、のろいか。判然とするわけもないが、なんにせよ女神の情が絡みついた瞳だ――そう思った。
「見たい夢がある、力を貸してくれ」
 男が述べたことは、夢を操る技術者であるわたしに請うに、至極妥当なものだ。
 どのような、とわたしが問う前に男は続けた。
「夢から帰って来ない女がいる。彼女のいる夢を見たい、彼女に会って伝えなければならない」

 かくして男の部屋はわたしの作った装置でひしめくこととなった。
 男の部屋に「彼女」はいた。寝台に横たわり、寝息さえ確かめられない。目の色はわからずとも、赤い髪は魔力を感じさせる。なるほど記憶を探るという妙なることを、その使命とするにふさわしい女であるのだろう。
 部屋の中は赤い。
 この赤は、女の魔力を増幅させる炎だ。
 わたしは装置に赤い顔料で仕上げを行うこととした。さながら、べにをさすようであった。

 男の部屋には、たまに装置の管理に通うこととなった。いつ尋ねても男は熱心に女の夢を探っていた。
「夢は見れたか」
「いや」
 その熱に反して、男の声はいつも凪いでいた。
「まったく見れない。だがあなたの装置の力は感じている。他の夢は見れていて、記録され、多少の干渉もできている」
 夢はつながっているといわれる。
片方が見る夢は、もう片方も見ている、と。
 男が女の夢を見るとき女もまた男に会える、それがまことしやかな、だが確かな力を持った、通念であった。
 だから男は、女の夢を見ることで、女を連れ戻そうとしているのだった。
「――なんと伝えるのだ」
 男の瞳の陰りには惹きつけるような力があった。その力に誘われるまま、ついそのように尋ねた。男の穏やかな声が、滑らかに答える。
「海へ行きませんか、と」
「海?」
「そう、この眼下に広がる海だ。女神のおわす海、彼女が帰ってくるべきところだ」
 この黒い瞳の中の海も、女神の海だ。
わたしはそう思いながら、それは傍観者のつまらぬ感想にしかならぬことを知っていた。
「彼女は、俺が夢の中に忘れたものを、取りに行ったのだ。以前、俺は確かに彼女と同じ夢を見た。そこに、忘れ物をした」
 それが何であったかさえ、思い出せないという。忘れたということ自体、覚えているのは女だけだった。だから女は、男のために夢を見ることとしたのだと。

 友のように通うことに慣れ、多少の親しみを分かち合うようになったころ、男の憔悴が目に付くようになった。
 夢に干渉することは、女神に嫌われる。女神のみならず、この世のものならぬすべてのものに、忌み疎まれることだ。
 夢は、ひとのものではないからだ。
 そう言い聞かされ続けていた青い日の記憶は、すでに遠い。だが確かに女神に反駁したその日から連なった今日が、今もわたしにこの仕事をさせている。
 この仕事をするうち、むしろ神威と呼ばれるものの存在がくっきりと感じられるようになった。そのことにさえ慣れ親しんでいたわたしに、男の表情は突き刺さった。
 夢は、しょせん統制できない。
 そのことを知らせるのが、大概のわたしの仕事であった。
 だが男があきらめる様子はなく、来る日も来る日も心火を燃やしている。
 わたしの胸には、自分の奥深くからのささやきが去来していた。
「夢は見れたか」
「いや、見れない。どうしてだ……、まるでそこだけ避けるように、見れないんだ。そのようなことは、あるのか」
 男の言葉が、知らずわたしを責めた。
「当然、ないとは言えない」
「おれはあきらめるべきなのか」
 男の声は、言葉と裏腹に、そうするつもりは全くないように響く。
「わたしは依頼主に、はばったいことは言えない。……だがきみが段々とやつれていっているのは、……友としてならば、感じる」
 男の瞳が、煩悶を宿してこちらを見る。
 その瞳に、わたしは明確に、自分の罪状を突き付けられた。
 ――海へ行きませんか。
 本当は、その言葉で業火から連れ戻すべきはこの男なのだ。
 女はおそらく、形は生きていてもすでにかくりよの住人だ。男の「忘れ物」はそもそも、神かあやかしか、いずれにせよ人ではないものの手でかどわかされたのだ。それを追うために命を落とすものが絶えることなく存在することを、人の夢に手を加えることを生業とするわたしは、その限界を突き付けられるが如く知っていた。
 男にかけるべき言葉を、わたしは知っている。
 それを言えぬ理由だけを、知らない。
 罪を握りつぶし、赤い世界を今日も辞した。

 男はとうとう、意識がもうろうとするようになった。
 譫妄も夢も似たようなもので、わたしが訪ねたとき、モニターには男の見ているものが映し出され、それが隣で刻々と記録されていた。
 その景色は、海の上で炎が燃えているものだった。
「きみは……女神になお、あらがっているのか」
 そして、わたしは自分がなぜ男に言葉をかけられぬのかを知った。
 わたしはそれに惹かれ、欲しいと思ったのだ。
 人を易々とかどわかす女神に唾棄し、死神が喉元に迫ってなお、その「限界」の先を求める男に。
 男のたどり着く先にあるものに。
 わたしは限りなく惹かれ、男を殺さんとしながら、その死体の上に恍惚があらんことを望んでいる。
「わたしは。何を考えているんだ……」
 長く後ろ暗い仕事に手を染め続けて、ひとの倫理もいつの間に失っていたのか。
 知らず頽れて、自失しようとする意識を、だが男の声が縫いとめる。
「――海へ、行きませんか」
 わたしは、はっと顔を上げた。
 モニターのうつすものが変わっていた。
 それは、女の姿であった。
 その瞬間、すべてが吹き飛ぶ。わたしは夢中で叫んだ。
 男の意識を此岸に連れ戻すための、そして贖罪のための、その言葉を。

***

2016/5/6のフリーワンライ参加作品。お題は『夢で会うその時まで』『私はそれが欲しい』『忘れ物』『キミの築いた城塞』『「海へ行きませんか」(口調等変更可)』です。
ピアノ曲シリーズを脱しました。ワンライは普段書くものにはない勢いが出て楽しいです。


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